「言論の自由」という伝統

全くの余談だけれど、私は有田の柿右衛門窯のファンである。かと言って決して焼き物に詳しいわけではなく、ただいま猛勉強中。

昨年、佐賀県立美術館で行われていた人間国宝四人展」で、私は故14代柿右衞門さんの作品を見て深く感銘を受けた。江戸時代から受け継がれてきた伝統の「柿右衞門様式」が、故14代さんの卓越した技術と独創性でコンテンポラリーな輝きを放っていた(と私の目にはうつった)。

その14代柿右衞門さんから、たくさんのことを教わったという有田の陶芸家とお話していた時。
「伝統を川に例えると、ただ守り続けるだけでは川幅は確実に先細りになっていく。川幅を保つためには、常に”今の時代”を反映させていかなければいけない」と14代さんから教わり、今でもこころに残っていると話してくれた。
その時私は、15代柿右衞門さんから聞いた「伝承と伝統は違う」という言葉を思い出した。それは、どんなに素晴らしい教えも技術も、そのまま伝承していくだけではいけない。伝統として受け継いで行くには、その時代に存在する意義のあるものとしていかなければならない、ということだった。つまり、古いものをそのまま引き継いでいくのが伝承。一方、伝統とは革新の積み重ねで存続していくもの。私はそう理解した。

パリでのテロ事件、ベルギーでのテロ未遂事件を受けて、オランダのメディアでもさまざまな意見が飛び交っている。
「言論の自由」の理念を死守すべきという主張や、自粛を訴える声。イスラム過激派に対する批判から派生したイスラム教の原理に対する批判。ムスリムやユダヤ人に対して理解を示す声。同時に、恐怖や不安をストレートに訴える市民の声も高まり、テロの危険はオランダでもリアルな現実だという認識が浸透し始めている。

そんなある日、オランダの人気トークショーで、アムステルダム市長が次のように語っていた。「特定の脅迫を受けている事実があるというわけではないが、アムステルダムでもテロ事件が起こる可能性はあると発表されている。その対策として、各人が注意を払うことは大切。同時に恐怖感を抱くのは理解できるが、その恐怖に打ち勝つ冷静さと連帯感を持つ必要がある。そうして日常生活を普通に送る努力をしなければテロリストの思うつぼ(要訳)」。
ふむふむ・・と頷く。
そして彼は、オランダやフランスが培ってきた「言論の自由」という伝統は断固として守り、特にこの時期にこれまでのやり方を変えることは断じてするべきではない、と続けた。
その時ふと、故柿右衞門さんの「ただ守り続けるだけでは、伝統は先細りになる」という言葉が頭に浮かんだのだった。
今多くの人々が、実は「言論の自由」という伝統のあり方そのものに異論を持ってはいないか?
その理念は、今の世界情勢や時代感に合わない姿で暴走してはいないか・・・?
「言論の自由は神聖」と言うステートメントには私も心から同感だが、その「自由」は社会の中では随分と不均等に分配されていた。それでも「絶対に変えない」と言う各国要人らの主張は、この素晴らしき伝統の「先細り」の予言に聞こえた。
確実に次世代へと継承していくためにも、常に革新が望まれていたのでは・・?
そしてそれは、テロリストに屈服することとは全く別の話なのでは・・・??と思う。
時代の要求に耳を傾けながら必要に応じた変化を見極めるバランス感覚、そしてそれを形にするために必要な成熟したディベート力。
「言論の自由」という素晴らしい伝統をサステイナブルなものにしていくには、これまでの「度胸」や「勇敢さ」に加えてそんなスキルも重視される必要がある。

中世の時代から子供たちに親しまれてきたオランダで最も大切な伝統の祭り「セントニコラース祭」も、世論を分断するほどの大論争の末、現代のマルチカルチュラルなオランダ社会の要求に応じた姿へとシフトを始めている。変化させることへの反対の声はまだまだ根強いようだけれど、周囲の大人たちが努力を怠ることなく前向きに知恵を絞り続けていれば、少々姿を変えたところで祭りの根幹が揺らぐことも、主役である子供たちを失望させてしまうこともないと思う。

グローバル化した今の世界で、生き生きと存続し続けるためには?
ちょっと奮発して購入した柿右衞門窯の絵皿を見ながら、私は「言論の自由」の進化形に思いを馳せてみた。