2月のストライキ(ナチス時代のアムステルダム)


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2月25日の11:00、アムステルダム中のトラムが1分間止まった。
すると車内放送からファン・デル・ラーンアムステルダム市長の声が。
「1941年2月25日火曜日の朝、トラムは走っていませんでした。乗務員たちは(ドイツ占領軍による)街の同胞であるユダヤ人迫害に対する抗議の意の表明としてストライキをしたのです。約1万人のアムステルダム市民が<2月のストライキ>に参加しました」。そしてこの1分間の停車が追悼のためであり、「2月のストライキ」が人のために立ち上がるという行為の象徴として街の歴史に刻まれていると説明。同日16:30よりヨーナス・ダニエル・メイヤー広場でこの記念式典を執り行うことも告知した。

1941年2月のこの抗議運動には、公共交通機関の従業員や公務員、港の労働者たち、店員など約1万人が参加した。翌日にはヒルヴェルサムなどの他都市にも飛び火したが、大規模な抗議運動に驚いたドイツ軍はすぐにこれを武力で鎮圧。参加者には死者も出てた上、多くの人々が投獄された。スト実施の中心人物も投獄され、後に処刑されている。

この抗議運動の直接の引き金となったのは、1941年2月22日と23日に起こった出来事だった。
市内ユダヤ人地域にあるヨーナス・ダニエル・メイヤー広場に427人のユダヤ人男性が集められ、その家族や他の市民も抵抗する中、ドイツ軍によって強制収容所へと連行されていったのである。
これに怒った市民たちが決起したのが「2月のストライキ」だ。ナチス占領下のヨーロッパで、公に実施された唯一の大規模デモンストレーションとなった。

毎年2月25日にこの広場で記念式典が執り行われているが、75年という節目を迎えた今年は国王も臨席。ファン・デル・ラーン市長自ら式典の告知・広報に尽力した。

ストライキに参加した港湾労働者を象った記念碑がたつヨーナス・ダニエル・メイヤー広場には、近年2月22日、23日の強制連行の様子を記録した写真の常設展示も加わった。これらの写真は、本国への報告のためにナチスが撮影したものだが、写真現像の発注を受けた市内の写真屋がこっそりとプリントしていたものが現在に至るまで”迫害の歴史の証”として保管されていたのである(国営放送ドキュメンタリー「De stakende stad」より)。

こうして、一度は街の同胞のために奮起したアムステルダムだが、その後は一変してユダヤ人狩りに加担する動きが広まっていく。「2月のストライキ」の原動力となった人道的思想や行為は、多くのユダヤ人と共に地下へと潜伏していったのだ。
ナチスは、オランダ人の協力的な態度を高く評価した。ユダヤ人逮捕率も、他の欧州諸国よりも高かったと言う。ユダヤ人ひとり当たり7.50ギルダーの懸賞金をかけ、積極的かつ組織的に彼らを検挙していたと歴史家Ad van Liemptは「De stakende stad」の中で語っている。van Liemptによれば、ナチス占領下でこのようなシステムを導入していた国は他に例がなく、懸賞金との関連で逮捕されたユダヤ人の数は1万人に上ると推測されると言う。オランダ人が自発的に考案したシステムが、悲劇的にも功を奏したのだ。かのアンネ・フランク一家も、このような動きの中で密告され逮捕されていったに違いない。1944年の秋になると、懸賞金は40ギルダーに跳ね上がっていた。当時の7.50ギルダーは現在の約47ユーロ。1944年当時の40ギルダーは242.55ユーロ

「2月のストライキ」は、市長が言うように他の人のために立ち上がる人道的行為の象徴であったと同時に、わずかな月日の間に街の空気を塗り替えた民意の豹変の証人でもある。
移民や特定の宗教グループに対する世論の変化は、現在、再び深刻な社会問題になりつつある。

 

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